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炎と水
初代 田村義三郎
イノベーション・ネットワークあおもり
 
       
   
  1924年(大正13年)5月16日未明、八戸町本鍛冶町の経木(きょうぎ)工場から出火した火は折からの西風にあおられ一気に火勢を増した。赤々と燃え上がる炎は防火線を次々突破。中心街を6時間にわたって焼き尽くし、町に壊滅的な打撃を与えた。町全体の四割に当たる民家1393戸が燃失、死者4名、重軽傷者183人。「八戸大火」である。

同町十一日町で家業の鉄工所を手伝っていた田村はこのとき22才。二十日町前に妻チヨと結婚式を挙げたばかりだった。当時は川、沼の水をくみ上げ手押しポンプで放水するのが一般的。あまりの火勢いになすすべなく逃げ出す消防団も出るほどで、田村は水でぬらした布団を掛けて購入したてのモーター1台を守るのが精一杯だった。
 
         
       
   
  「機械いじりが好きだった私は大火の後、もう手押しポンプではダメだTP考え、家業の傍ら、何かないかと頭をひねった」田村は後にこう回想した。八戸大火は田村が消防機材の開発・改良に執念を燃やすきっかけとなった。

尋常高等小を出ただけの田村の口癖は「若いときにもっと勉強しておけばよかった」しかし、いったんアイディアが浮かぶと、とことんまで追求しなければ気が済まなかい性分だった。方眼紙とノギス、スケールを持って机の前に座ると寝食を忘れて設計に没頭した。八戸市消防団三分団一班で田村と共に消化活動にあたった元八戸地域広域市町村圏事務組合消防本部消防長の西村和男氏は「あいさつされても気付かないほどの集中力で、どうすれば消化がはかどるか四六時中考えていた」と懐かしむ。
 
         
       
   
  1929年、独シーメンス社の技師ヘンリー・ミラーとの出会いは田村に技術者としての転機をもたらした。
八戸火力発電所に招かれたミラーは、田村ら三人を助手に雇い千二百万馬力ディーゼルエンジンの組み立て工事を担当。
ミラー氏は作業中に部品を落とした助手は即クビにするほど仕事に厳格さを求めたが、田村の腕を見込んで翌年は秋田県増田町の火力発電所にも同行させた。「技術の基本は全部ここで学んだ」と田村は後年、周囲に語っている。
   
昭和13年春 八戸吹上火力発電所
         
       
   
  田村の名を一躍有名にしたのが1947年のタンク付消防ポンプ車の開発。田村は1935年に創業した八戸鉄工所を株式会社に改組、初代社長に就任していた。当時の消化活動はいかに迅速に水を確保できるかが明暗を分けた。タンク付消防ポンプ車は貯水槽がない場所でも初期消火を可能にした。戦後の極端な物不足で車体入手に苦労したが県出身の苫米地義三運輸大臣を拝み倒して「いすゞTX80」(五トン、八十馬力)を確保。東京の大手メーカーから呼び寄せた技師に詳細な設計書を書かせた。前例のない消防車だけに多くの障害があった。

五トンの車に三トンも水を積めばカーブでひっくり返るに決まっている・・・タンク内に仕切板を多数取り付け、水の働きを抑えれば心配ない・・・麻製のホースでは放水の水圧に耐えられない・・・タンクとホースの間にバイパス管を取り付け、水圧を抑えればいい・・・

 
  技師の懸念に対して田村は独創的なアイディアを次々と披露二日間かけて技師を説得した。費用四十万は寄付金で賄うため、奉加帳を手に町内を駆けずり回った。翌1949年には、タンク付消防ポンプ車に送水する補給車を開発。米軍の払い下げ車を活用した。タンク付消防車の後に補給車が駆けつける「ペア戦術」は、消防戦術の基本として八戸から全国に 広まった。

1956年に消防講習所(消防庁消防大学校の前身)で研修を受けたがペア戦術は地方の研究家によって考案されたものだと話題になっていた」と西村氏。

現在、放水ノズルの主流となっている「展開式噴霧ノズル」の原型となった「田村式可変ノズル」を開発したのも田村。限られた水を有効に使うためのアイディアだった。水を広角に噴霧することで輻(ふく)射熱を遮断、消防隊の屋内進出が容易になり人命救助につながった。さらに噴霧ノズルに接続す るホースを従来の2.5インチから2インチにしての放水時の反動を抑制、消防士一人でも放水を可能にした。
   
昭和23年夏 国内初の消防タンク車製作 (中央:北村益氏 右端:田村義三郎)
         
       
   
  田村は消防団員として火災現場に飛び込む実践派でもあった。火事が起きると鉄工所の仕事は中断、社長の後を追って全 従業員が出動した。現場での消化体験から新たなアイディアが次々と浮かんだ。

八戸鉄工所の従業員から田村の養子となった現会長の幸男氏は「とにかく消防狂いで、屯所から自宅に直通電話を引き、夜は刺し子(防火衣)を枕元に置いてねむっていた。商売上手だったとはいえないが、市民には「命を救ってもらった」と今でも感謝される。